「慣れ親しんだ自宅で幸せな最期を迎える方法」という帯が目にとまり、半ば論破するつもりで読んでみた。けれども、論破するどころか、しっかりとした考えや判断のものと書かれた本だった。ここまで積極的に自宅で一人最期を迎えようとする人がいることを知り、訪問診療のあり方を考え直すきっかけとなった。
実は、このところ、独居老人の訪問診療は断っていた。その理由は、訪問診療で治療をしたことがかえって入院のタイミングを遅らせてしまうことを懸念してのことだった。例えば、気管支炎。抗生剤などを処方して、様子を見ましょうなどと言っていたその夜に、急激に症状が悪化したときに本人が診療所に電話できるのか?気がついたら亡くなっている場合だってある。その責任を負えないと思ったからだ。でも、上野先生のように、それでも良いと思っている人もいたかもしれない。今後は、そこまで話をする必要があると思った。
実は当院で最初に看取った人は、認知症で心不全の独居老人だった。私が勤務医をしていたときから知っていたので、認知症とはいえ世間話くらいは出来ていたし、家で亡くなることも受容している人だった。突然死も十分に想定されている状況だった。そんな中で本当に最期は突如としてやってきた。
ヘルパーさんが訪問すると鍵があかないためにレスキュー隊を呼び、浴槽の中で息絶えているところを発見されたのだった。レスキュー隊は、警察を呼び、検視が始まった。私は主治医としてこれは事故ではなく病死だと警察官に説明したが聞き入れてくれなかった。ビニールの袋に詰められて警察が連れて行ってしまうのだった。
安らかな最期を届けられるように細心の注意を払っていたのに、こんな結果になってしまうことに無力感を感じた。最期のあり方なんて、コントロールできないものだと教えられた。
亡くなる前にもっと話をしておけばよかった。本人は何も思い残すこともないし、先に逝った婆さんに早く会いたいと言っていた。自分の中では痛ましい思い出となっていたが、上野先生のように考えていたのだとすれば、大好きなお風呂で気持ちよく迎えられた幸せな最期だったのかもしれない。
幸せかどうかなんて、本人が感じることだ。外野がとやかく言うのは間違っているのだろう。
それでも、自分が戸惑うのは、看取ったという達成感を感じにくいからなのだと思う。
家族がそばにいてくれて、できるだけのことはやったと感じられると、何かしらしてあげることができたという達成感?のような充実感が残るものなのだが、一人で逝かれてしまうとなかなかそうも思えないのだ。一晩だけでも一緒にいてあげられたのではないか?本当は寂しさを押し隠していただけだったのではないか?そういう自分への問いかけに答える事ができない。
正解なんてないから、自分だったらどうなのかと考えてみる。
誰かに看取ってもらいたいか?と自分に問いかけても、わからないとしか言えない。周囲の状況にもよると思う。そもそも、自分では決められないことなのではないか?
今思うのは、病気だけ見る医者とか、処置だけして早く終わらせることしか考えない看護師とか介護士、自分自身に一切興味を持っていない人にはそばにいてほしくない。人と人としての関わりに注意を払ってくれない人との付き合いは苦痛でしかないから。
そう考えると、うちの診療所では、そういうことを大切にしていると気がついた。
本人が何を感じて、何をどのように判断し、どんなことを考えているのか?そこに関心をもち、少しでも有意義な話が出来たらいいなと思っている。
コメントをお書きください
川越 照美 (火曜日, 16 3月 2021 10:50)
こういう医師もいらっしゃるのだなと、感涙しております。
今の日本の医療体制の矛盾に医師自らが改革し取り組まれている、素晴らしいと思います。
定年退職して8年、やりたい事をやりつくした感があり、モチベーションを失っていましたが、死を考える事で
生きる事、またやりたい事のモチベーションが湧き出てきそうです。
これからもが頑張ってください。
木暮@生きがい訪問診療所 (火曜日, 16 3月 2021 16:24)
励みになります。
ゴメント、ありがとうございます。m(_ _)m